今の自分があるのは、成長の過程で浴びるように観た結果、自らの血となり肉となったジャンル映画のおかげである。そういうジャンル映画、なかでも極めつけに悪趣味だが愛すべき作品たちに恩返しができないものだろうか?
 という至極真っ当な考え方からタランティーノの『グラインドハウス』は生まれた。『グラインドハウス』(07)はおもに70年代・80年代に作られたジャンル映画へのラブレターで、それを作るにあたってタランティーノは自分と〈ジャンル映画愛〉を共有していると思われる監督たちを呼び集めた。二本立て形式の『グラインドハウス』本編の間に挿入されるフェイク予告編を作ってもらうためにだ。そうして出来上がったのがロバート・ロドリゲスの『マチェーテ』、エドガー・ライトの『Don't /ドント』、ロブ・ゾンビの『ナチス親衛隊の狼女』、そしてイーライ・ロスの『サンクスギビング』である。このうちロドリゲスの『マチェーテ』は『ハードボイルド/新・男たちの挽歌』(92)や『狼/男たちの挽歌・最終章』(89)などの「ラテン・アメリカ版を作りたかった」とロドリゲスが明言している通り、実はかつての〈グラインドハウス映画〉との結びつきが弱い。一方でエドガー・ライト『Don’t/ドント』はストレートに『ヘルハウス』(73)を再現しようとした試みであり、またイーライ・ロスの『サンクスギビング』はいわゆる一連の「祝祭日スラッシャー」映画(なかでも『誕生日はもう来ない』(81))をバックボーンとしていたのは周知の通りである。
 異色だったのはロブ・ゾンビ監督作品『ナチス親衛隊の狼女』だ。というのも『ヘルハウス』的な恐怖映画や『誕生日はもう来ない』のような「祝祭日スラッシャー」は、確かに特定の時代と結びついてはいるものの、決して「絶滅した」ジャンルではなかったのに反し、『ナチス親衛隊の狼女』がスクリーンに蘇らそうとした「ナチ残酷映画」は完全に死に絶えた、呪われた映画ジャンルだからである。「ナチ残酷映画」は今では「製作することが許されない」ジャンルなのだが、その背景には時代精神の変遷、PC概念※の発達といったものがある。さらに言えば公開当時でさえ「ナチ残酷映画」が一般に許容され得る娯楽として機能していたかというと、そこには大きな疑問符をつけざるを得ない。もちろんロブ・ゾンビはそのことに自覚的だったので、『ナチス親衛隊の狼女』ではいわゆるナチス・ドイツの「人狼部隊」を換骨奪胎、「もし〈人狼部隊〉が実際に狼男化した兵士だったら?」というマンガ的な表現にすることでもともと「ナチ残酷映画」が孕んでいた陰湿で人倫に悖る感覚を和らげていた。とはいえ敢えて最も問題が多く、映画史上にぽっかりと空いた不吉な穴のような「ナチ残酷映画」を再現したロブ・ゾンビの蛮勇は賞賛されてしかるべきだと筆者は信じる。「悪趣味で最低といわれようが、こういう映画が自分を形作ってきたのだ!」という強い信念がそこには感じられるからだ。
 イーライ・ロスは『グリーン・インフェルノ』で、ロブ・ゾンビと同じように「死に絶えたジャンル」すなわち「食人族映画」を21世紀に復活させた。『グリーン・インフェルノ』がエンドクレジットでわざわざタイトルを列挙してみせたようなイタリア製「食人族映画」はもともと、モンド映画のサブジャンルとして生まれてきた。「食人族映画」が誕生した頃、60年代から70年代初頭にかけて全世界を席捲したモンド映画ブームは凋落の一途をたどっており、一部のモンド映画製作者たちはより過激な方向へ舵を切ることで観客を繋ぎとめようとしていた(皮肉なことに、その「過激さ」、すなわち死体映像やスナッフ的な映像の多用がモンド映画の時代に引導を渡すことになったのだが)。しかし未開の種族、いわゆる「土人(この言葉に問題があることは重々承知しているが、モンド映画あるいは食人族映画は未開な部族をまさに「土人」として描くことに特徴があった)にはまだ観客を惹きつけるポテンシャルがあるはずだ、という慧眼が「食人族映画」を生むことになる。秘境、土人、食人の風習……「食人族映画」はモンド映画の見世物要素を劇映画に転用することで生まれたジャンルなのである。「ナチ残酷映画」同様、「食人族映画」もジャンルとしての寿命はたいへんに短い。ウンベルト・レンツィによる「食人族映画」の嚆矢『怪奇! 魔境の裸族』は73年の映画だが、ルジェロ・デオダートによる「食人族映画」の金字塔こと『食人族』は1980年、また『食人族』へのレンツィからの返答ともいえる『人喰族』は1984年の映画であり、「食人族映画」というジャンルはおよそ10年強でその寿命が絶たれた(ナチ残酷映画もおよそ10年ほどしかもたなかった)。そして「ナチ残酷映画」と同様「食人族映画」も──およそジャンル自体が「忌まわしく」、「現代の通念からして一般に受け入れられない」という意味で──呪われたジャンルとなった。
 しかし13歳で『人喰族』を、19歳で『食人族』(81)を観たイーライ・ロスは、そのとき受けた衝撃を忘れてはいなかった。「何もかもが本物に見えた。ものすごいショッキングな体験だった」。その「ショック」への恩返しをしたい! イーライ・ロスは『ホステル2』(07)で『食人族』の監督ルジェロ・デオダートにカメオ出演を依頼、「イタリアン・カニバル(イタリアの食人鬼)」という役名の下、劇中で人肉を優雅に食べる姿を演出した。またイーライ・ロスは『ホステル2』のエンディングにリズ・オルトラーニによる「食人族のテーマ」を流すことも切望していたが、これは実現しなかった。『ホステル2』の撮影スナップではイーライ・ロスが毎日のように『食人族』のTシャツを着ていたことも確認できる。
『グリーン・インフェルノ』は、かつて確かに存在し、しかし今は失われてしまった「呪われた」ジャンル映画への熱烈なラブレターだ。ロブ・ゾンビもイーライ・ロスも、「ナチ残酷映画」や「食人族映画」というジャンルそのものが今という時代に──少なくとも通常のやり方では──受け入れられないことを重々承知で、しかしそういった悪趣味で残酷で政治的に間違っている映画への愛を表明せずにおれなかった。なぜなら誰がなんと言おうが、かつて(おそらくVHSで)観た、呪われた残酷映画が自らにもたらした原初的なショックこそがいまの自分を作り上げたと断言できるからだ。安易な「オマージュ」や、観客に媚びた「とある時代のジャンル映画に似せた映画」が跋扈する昨今にあって、『グリーン・インフェルノこそ最もストレートに、最も深い愛情を持って作られた真の「グラインドハウス映画」だ。愛とは事故のようなもので、愛する相手を自分で選ぶことなど本当は出来はしないのだから。 ※Political Correctness=政治的正しさ